時にはいっしょに

 ドラマの題字は南野陽子の手書き。


 http://www.fujitv.co.jp/otn/b_hp/911200004.html

 86年10-12月期にCX系で放映された両親の離婚によって別居する姉弟の視点から家族の絆を描いた山田太一作品である(だから反発する姉と弟が、別居を機に、それぞれがかけがえのない存在である事に気付いていくというのが隠れテーマ)。「岸辺のアルバム」とか「早春スケッチブック」などに比べると「想い出づくり」と同様のやや軽めのテーマ設定で特に氏の代表作と言うわけでもない。山田太一作品お得意のどこにでもある郊外の一軒家からドラマは始まる。駅からだいぶ離れているため自転車がないと生活できない(この時期、なぜかCX系は京王線沿線を好んで使っている)。このため車庫には家族の人数分の自転車が並んでいる。夫は大学の助教授。妻は専業主婦である。一度、夫の浮気があったが、これが離婚の原因ではなく、「相手に関心を持てない。このままいっしょに暮らしていれば、それでいいのだろうか」と妻(伊東ゆかり)は離婚理由をこう説明する。母である以前に、妻である以前に、自分は女なのだと。離婚してみて矢崎滋と田中健の兄弟が経営するおもちゃ屋に勤め始めたら、ようやく仕事に慣れたところで、兄弟両方に惚れられたためにクビになってしまう。マンガみたいにダンディな風体の夫(細川俊之)は秘書(石田えり)と不倫関係になるが、相手の方が一枚上手であり、かえって現実の恋愛の場での小心な保身ぶりや、家庭での取り繕いのずるさ、情けなさが際立ってしまう。

 長男坊(角田英介)はこの時期流行の松田洋治系の僕ちゃん感が妙に気恥ずかしい芝居(永瀬正敏も同系統で、南野のストーカー化した同級生役がはまっていた)。夏休みに、レンタルビデオ屋通いで仲良くなったバイトの洞口依子を、留守中の家に上げてシャワーを貸すと、折悪しく、父とアパート暮らしを始めたばかりの姉と鉢合わせになる…といった、いたたまれない場面が続出。一見しっかり者な優等生の姉(南野陽子)は、実はちょっと軟派者風の先輩坂上忍に片想いしているが、坂上はよりにもよってなんと弟の彼女である洞口と付き合い始めてしまう。離婚前は、家族そろってレコードを聴き、ピアノ弾きながら合唱する、気恥ずかしいくらいマイホーム幻想を絵に描いたような連中だったから、その後の各々の色恋沙汰の気まずさが半端じゃない描写として表れている。様々な立場の人間に、様々な考え方(強さと弱さ、身勝手さと優しさ)を喋らせ、そういう人たち同志を衝突させ、、そうした矛盾(そして、どう転んでも「無傷の立場」というものはないということ)を見せつけると共に、しかもそれをテレビドラマという、敷居が低く、受け手の集中力が期待できない媒体の長所短所をすべて引き受けて、徹底的にわかりやすく、そして容赦なく切り込んでいく(=各々が長セリフで独白している)。ともあれ、山田太一ドラマにおいて、各人は幸せになろうと行動し、その結果に喜怒哀楽している。

 山田太一のドラマの多くでは、各々の登場人物が、抱える問題(内心の恥ずかしさ、後ろめたさ)をギリギリまで追い詰められた末に、最終回に何らかのイベントが発生して一同が参集する。本作でも、結局恋愛に敗れた姉弟とそれぞれの相手、そしてそれぞれの相手と別れたにもかかわらず、おそらく修復の見込みはないであろう、かつての両親が最終回で4人が顔を突き合わせてランチを食べようというのである。テーブルを囲む。一人の自由を手に入れた各々の新生活は、結局なかなかうまく運ばないまま。けれど、そこでそれぞれが様々な気まずい自覚と、疲れと孤独を経験する。かといって、両親の寄りが戻ったというわけではなく、再びかつての家族と元の鞘は戻らない(前にも述べたが小生が山田太一作品があまり好きではない理由は上記の事態の改善が何一つ図られていない点にある)。ただ、一度は家族だった者同士、こうして時には食事をしようと、各々が少し寂しい笑顔を見せる。だがその結末を「これが答えだ」「これが現実だ」と、作者が一方的に示しているわけでもなく、各々に各々の事情と現実があり、ここで出した理屈や結論も、きっと別の場面では簡単にひっくり返ってしまうほどもろく崩れやすいものとして描かれている。具体的に「良い結果」に繋がらなかったとしても、人恋しさの中で揺れ、拙い経験の中で少しだけ何かを知る。そんなさまよう人間たちを、繰り返し見つめて描いている。

 いうなれば、家族4人全員が失恋したのかもしれない。人間とは孤独な存在である。これからどんどん人間は孤独になってゆく。離婚や未婚は今後も増えこそすれ、減ることはないだろう。親子の関係もどんどん疎遠になってゆくと思われる。それは時代の流れだから仕方がない。けれども、心を寄せあえる誰かと一緒にいたいのは自然なことである。だったら、たまになら、こうしてかつて家族だったものが集うのもいいのではないか。そういう家族関係があってもいいのではないか。だから「時にはいっしょに」ということなのだろう。ところで山田太一はキャスティングが決まらないとシナリオが書けない(三谷幸喜も同じだが映像重視派)脚本家だ。いわゆる「あて書き」する作家で、先に配役ありきで物語が動いていく。ただし本作品が放送された86年秋は映画版「スケバン刑事」公開前なのでまだナンノ人気は爆発していないし、オリコンもザ・ベストテンも最高5位どまりで、ファンとしては「このまま伸び悩んでしまうのじゃないか」と心配していた時期である。しかもスケバン刑事のイメージがあまりに強すぎて他の役が難しくなるおそれもあった(この懸念は4年後に事務所移籍騒動などで具現化してしまうのであるが)。だがこの時には山田太一によって南野陽子の真面目さと不器用さをそのまま生かせる季代のキャラクターはまさに適役だったと思う。これによって彼女の女優人生が開けたと言っても過言ではない。そのナンノもいよいよ結婚するのか。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110303-00000501-sanspo-ent

・・・山田太一は根本のところで、チェーホフによく似ていると思う。

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