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zoom RSS iPhoneで懺悔(告解)はあり得ない

<<   作成日時 : 2011/02/13 06:45   >>

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 当たり前田のクラッカー。

 http://headlines.yahoo.co.jp/cm/main?d=20110210-00000850-reu-int&s=created_at&o=desc

 なぜか日本でよく誤解してる人がいるが「懺悔(告解)=罪の許しを請うこと」ではない。懺悔(告解)というのは、あくまでも「罪を告白し改悛を誓うこと」だ。神に許しを請うのは、その告白、改悛の誓いを聞いた聖職者のみが「秘蹟」を執行できる(わずかな例外事項を除く)というのが教会での懺悔(告解)室での作法である。日本でもネットで墓参りなんてサービスがあるが、やはり墓前で自身で墓石を清め、供え物・供花をするなど手間隙が無ければ本当に墓参した意味などないと思う。懺悔(告解)は、人が人を赦すのでなく、神が人を赦すのだから、罪の償い云々といった「この世の法則」を超えたもの。俗世の尺度で捉えられないものが、宗教の領分になる。だからカトリックにおいて懺悔(告解)とは結構ハードルの高い行為になる。なぜなら神と自分という関係で考えるカトリックを含めたキリスト教において、懺悔(告解)は「神」(=牧師・神父)に対して己の罪を嘘偽りなく申し述べると言う手間隙がかかる行為に意味があるわけで、懺悔をしたから救われるかどうかなどというのは大事な所じゃない(補足しておくと、懺悔(告解)は、単なる心の問題ではなく、非常にシステマティックなものだ)。

 本当はすごく隠しておきたいことや恥ずかしいこと、罪深いことをその「神」(=牧師・神父)に話そうと言う意識を持ち、その相手に意見を求めるという“すごく難しいこと”をする、羞恥や恐怖なんかの困難を克服する心構えを持つ事が懺悔(告解)の本当の意味合いだ。かつては神=宗教人が国家権力とは独立した存在として認識されていたからこそ、教会(=牧師・神父)がその役目を担っていたのだ。カトリックでは、教会にいる神父などが神につながる唯一の手段としている。だから、教会以外での懺悔など、何の意味も持たない。教会に行かずに、神像や聖典などが何もなくても、跪いて神に対して行えばよいというものでもない。それを、どこでも誰でも簡単に「私はこんな悪いことをしました」とか言える、「教会での罪の告白に向けて心の準備をするためのツール」たるスマートフォンで、遣り取りしてオシマイなんてイージーなやり方が認められるわけが無い。そんなものを作って、機械に向かって罪を告白しても虚しいだけで何の意味もない。それはただの「王様の耳はロバの耳」でしかない。少なくとも、「誰か」に向かって言える勇気がなければ、「懺悔(告解)」にはならない。なんで携帯なんぞに懺悔(告解)しようという気になるのかが全く理解できない。

 ・・・そもそも本気で悩んで切羽詰ってる人間に、心の準備なんて必要ないんでは?




告白と許し?告解の困難、13‐18世紀
言叢社
ジャン ドリュモー

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内 容 ニックネーム/日時
クリスチャンてこえーなー。
日本人
2017/02/02 07:10

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