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zoom RSS 武田勝頼の不幸

<<   作成日時 : 2010/10/23 00:39   >>

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 親の手抜きが子の命を縮めた悪例。


 なぜ信玄は勝頼を正式な後継者に指名しなかったのか。それには3つの理由がある。第1に、武田勝頼は本来ならば武田家を継ぐ資格がない人物である。武田家は信玄の嫡男である義信が継ぐはずであり、4男の勝頼は諏訪家を継げばよかった。ところが三国同盟の一角である今川義元が桶狭間で織田信長に討たれると、三国の軍事バランスが崩壊する。北方戦略を変更して駿河攻略を企画する信玄に対して義信はこれまで通りの協調路線を主張し、信玄と義信は対立した。この対立にいままで燻っていた家臣団の党派の対立が表面化して、飯冨虎昌が義信を擁立して信玄の隠居を画策する事件が起きる。この事件自体は先手を取った信玄がかろうじて勝利したが、事件後に起請文を取らなければならないほど家中の動揺が激しかったのであろう、禍根を断つために義信を自害に追い込んでいる。この時の他の戦国武将が成り上がり者ゆえに概ね中央集権政治システムを採っているのに対して甲斐武田家はなまじ名門であったがため、鎌倉武士→守護大名→戦国大名と順を追って変遷している。そのため、鎌倉室町前期と室町後期の時代のシステムが混在している。だから武田家の家臣団は全てそれぞれに領地を持つ御家人時代の地方豪族領主の延長であり、それは利益追求集団の組合であり、武田家はその上の議長ないし組合長に過ぎないのである。主君と家臣との間の信頼関係が一度崩れると、未だ兵農分離が確実に行えていない武田家では、国人や土豪たちの離反が避けられなくなるのは必定だった(=つまりいつでも造反食らって放逐可能だし、事実そうなった)。

 第2に勝頼の母が信州諏訪の領主、諏訪頼重の娘の子である点だ。諏訪氏は諏訪地方を治める領主であるとともに、諏訪大社の大祝の一族でもある。大祝とは諏訪大社の神職の最高位であり、諏訪明神に連なる家柄であり、一言で言えば「生き神様」としての扱いを受けている。 その諏訪頼重を武田信玄はだまし討ち同然に攻め、頼重を甲府東光寺に幽閉、これを切腹させ、その娘を妾にした。その娘との間に生まれたのが勝頼である。諏訪の領民の信玄に対する憎悪の念はかなり強かったと伝えられる。そのため信玄は武田と諏訪の血を引く男子に諏訪の地を任せて、領民を馴致したかったのだろう。だから勝頼は母の実家の姓である「諏訪」の姓を当初名乗り、武田家に生まれた男子でありながら、代々の通字である「信」の字をその名に持たず、代わりに諏訪氏の通字である「頼」を背負っている。だが、武田家中の人間にしてみれば自分達が滅ぼした諏訪氏の子である勝頼は、神の子どころか武田に仇なす敵の遺児でしかない。そんなものを国主として推戴できるわけがない。さらにその嫁の遠山夫人が嫡男義信の嫁の実家の今川義元を討った織田信長の姪とあれば、今川を見限り織田との協力体制を構築しようとしていた信玄の思惑・政治的背景が透けて見え、義信派(主に譜代衆)の印象が良いわけがない。

 義信が健在であれば、勝頼は名門諏訪氏を復活させて継いで、武田家の一家臣として生きていれば何も問題は無かった(=義信が勝頼を脅威に感じて討ち取りに来る可能性はあるが)。またこのような家督争いの事態ともなれば、普通の家ならば長子相続が基本の武家社会では次男が無条件で後継者である。だが、義信の死後、次男の竜芳は生来の盲人であり、また信濃の名族、海野氏へ養子に出ており相続権は無く、3男信之は早世しているため、4男勝頼が武田の後継者にならざるを得なかった。だが、義信が死んでからは武田家の後継者問題は上記のように表面化しており、先述の理由で勝頼を敬遠する空気が武田の家中に蔓延していた。武田家の主従関係の構造上、信玄もこればかりは無視できない。そこで正当な後継者はまだ幼い勝頼の息子信勝と定めて、勝頼をその陣代(後見人)とし、一応の解決を計った。早い話が問題の先送りである。しかも信勝は叔父の信廉の養子にした上で勝頼を後見にするという手筈になっていたので、この場合、信廉は信勝の養父として相応の待遇をされるべきなのだが、この辺の事情を知らない勝頼が信廉をただの家臣扱いにしてしまい、おかげで親類衆の不興も買ってしまった。この場合、親類衆が抱く感情は、「青二才の諏訪の勝頼よりも自分の方が血の濃さでも経験・能力でも武田の当主となるのに筋が通っているのではないか」というのが大半だろう。

 第3に、勝頼には、しかるべき官位が無かったことである。信玄の場合には朝廷より、「従五位下、大膳大夫」と言うきちんとした官位をいただいている。だから彼の正式名は、「従五位下、武田大膳大夫晴信入道信玄」と、長いものになる。ところが、勝頼は死ぬまで官位がなく、「武田四郎勝頼」だけである。これではただの武田家の四男坊であり、公的には何の資格もない。 武田家は元来、源氏の棟梁、源義家の弟、新羅三郎義光を祖とする武家の名門中の名門である。その名門の当主もしくは世継ぎともなれば、それ相応の官位をもらうのが外交上は当然のことながら、武田家中の安定を図る上でも必要不可欠であった。そうでないと実務的な権限の上ではともかく、家臣団にしてみれば勝頼を信玄とまったくの同格に見る事はできなかった(=単なる代理扱い)。この点は信玄も理解していたらしく、将軍足利義昭に官位と偏諱の授与を奏上している。だが、奏上した時期があまりに悪く、信長との対立が確定的になりつつあるときだったため、信長の圧力によって握りつぶされてしまった。勝頼に官位がなかったのは、勝頼が家中を統率する上で大きなハンディになったことは否定できない。

 もう就任以前から破滅要素満載の勝頼だが、まだ不幸は続く。信玄が亡くなるまでは武田家の一部将として働く事になる。野戦現場指揮官としての彼の作戦立案・指揮能力は、低いどころか、二俣城攻略戦などで、むしろ優れた武将の部類に入る。ところが信玄が西上作戦の途中で戦病死してしまう。しかも信玄は、上記の理由で家督を正式に勝頼に譲っていないまま死んでしまった。だから勝頼が無条件で武田の後継者には正式になれず、一部将扱いからいきなり御屋形様へという、「成り上がり者」としての不安定要因を持たされてしまった上に、跡部勝資や長坂釣閑斎ら勝頼の側近と、信玄に見出され、重用された実戦派の宿老達と、それらを常々面白くないと思っていた譜代の重臣達の三者の確執がここへきて表面化してきたのだ。勝頼は速やかに再進軍を考えていたが、穴山信君(梅雪)を初めとする御親類衆が、信玄の死を三年間秘するとした遺言を以て、この間出陣を控えるべしと強硬に反対したため(=戦費増大が嫌だった)に、動く事が出来なかった。この間に信長包囲網は次々と各個撃破させられてしまい、出陣できるようになった時には浅井・朝倉はすでに滅亡しており、伊勢長島の一向一揆はほぼ壊滅状態、将軍足利義昭は京から追放処分されてしまい、残存戦力で有力なのは石山本願寺ぐらいだった。こうして信玄の築き上げた反信長同盟軍は、ほぼ全て失ってしまった。勝頼は、手始めに美濃(岐阜県)の明智城、遠江(静岡県)の高天神城を相次いで攻略した。前者は救援に来た信長軍を撃退し、後者は信玄ですら陥せなかった城を陥すことで武勇を知らしめるとともに、調略を用いて遠江の多くの諸勢力を、徳川方から武田方へ寝返らせている。家康の嫡男信康の守る岡崎城の代官、大賀弥四郎の一件は家康方に発覚したけれども、後にこれが原因で信長は家康を疑い、家康は嫡男信康を切腹させなくてはいけない事になるという、ほぼ唯一の同盟の危機を作りだしている。

 このように対外的には信長も家康も勝頼を信玄同様に評価し、警戒していたが、とにかく武田家内部の評価が絶望的に悪かった。この中で家康はいち早く「信玄死す」の情報を掴み、いくつかの出城に対して威力偵察まがいの行動を採るとともに、三河の国人衆の奥平貞能を寝返らせる事に成功した。そして、長篠城を奪取し、その守将に奥平氏を入れてきた。高天神城を攻め落として勢いに乗る勝頼にしてみれば、これは看過できる出来事ではなかった。長篠城は三河攻防戦の際の重要拠点となる。そしてその城には裏切り者の奥平貞能が入っていることは、勝頼の顔に泥を塗るようなものだった。ただでさえ老臣たちから軽んじられる傾向があった勝頼にとって、信玄から代替わりのタイミングを見計らうようにしての裏切りは到底許せるものではなかった(=比べられた上で見くびられているという事に他ならないから)。いつまでも放置しておけば、武田家中の士気にも障りが出る。思惑はいろいろあったのだろうが、ともかく勝頼の長篠城攻略に向けた戦いが起こされて、一万五千の武田軍は、長篠城を取り囲んだ。家康には単独でこれを退ける力は無く、岐阜の信長の出馬を待つより他はなかった。武田軍に取り囲まれた長篠城の中には、守将・奥平定昌以下五百の兵が立てこもっていた。上記の裏切りにより再度武田側に付くという選択肢はないため、ひたすら守り通すしかない。だが城攻めの完成よりも早く、信長と家康の連合軍三万五千が、長篠城からさほど遠くない設楽原に到着した。勝頼にしてみれば城攻めどころではなくなった。

 この状況下で武田の陣営では連合軍との一戦に臨むか、それとも相手が攻撃を仕掛けてくるよりも早く撤兵してしまうかの軍議が戦わされていた。連合軍は設楽原に馬防柵を築き、その奥になりを潜めて様子を伺っているという。歴戦の老臣たちはそれを聞き、撤退論を主張した。数に勝る連合軍だが、その戦術が積極的攻勢ではなく、防御攻勢と踏み、また万全の防御態勢を整えた大軍の陣地に力技で攻めかかるのを下策であると考えたのだ。対する勝頼以下主戦派は、馬防柵を信長・家康が臆病風を吹かせている証拠だと判断し、あくまで強気に出て決戦に臨もうとした。なぜなら自国領への撤退は犠牲を出さずに兵力を温存する事が出来るが、それは同時に戦略的敗退をも意味する。何せ出兵理由の奥平氏を討伐する事が達成出来なかった上に、西上作戦の要である三河路の確保もできなかったのだから、それは勝頼の名を貶める事に繋がる(=当然、武田家家中での発言権の低下を招く)。さらに織田家の勢力の伸張は急速であり、日に日に国力差が開いていく現状(=この時点で武田120万石に対して織田400万石)を鑑みれば、どのみち早い段階で織田家と主力決戦を行い決定的な大打撃(=信長の首を取る)を与える必要があった。ここで引き下がっても次に戦う時には今回以上の戦力差になっている可能性が高い。

 織田・徳川連合軍への総攻撃を選ぶと如何に強い武田軍とはいえ、織田・徳川連合軍との兵力差は歴然としている。この戦で勝利するのはかなり困難である(=戦略的勝利条件は長篠城を陥落させるか、信長の首を取ることのどちらかしかない)。しかも信長は別にこの戦いで勝利する必要はさらさらなく(=戦略的勝利条件は長篠城の確保と周辺から武田軍を撤退させることだけ)、徳川の後詰を果たしてさえいれば良い(=三河はあくまで家康の領地であり主戦場)。ついでにいくらか打撃を与えておけば儲けモノといった程度だろう(=戦国合戦では、相手に痛撃を与える事もさることながら、自陣営の損耗を最小限に押さえなければ、別の敵に漁夫の利をさらわれる恐れがある)。この議論の紛糾に信玄亡き後の武田家中の分裂状態が集約されている。「勝頼対老臣」となどという感情面の図式の対立などではもはやなく、文字通り家中を二分するほどの深刻な軋轢が勝頼を巻き込んでいた可能性すらある。そうしてどちらの手段を選択するか悩んでいるうちに織田・徳川連合軍の別働隊が長篠城を包囲している、鳶ヶ巣山砦の3000の兵に奇襲をかけてこの武田軍支隊を一掃してしまう(=徳川は逆に自分の戦場であるので、今後の遠江攻略を視野に入れると、今回是非とも合戦を発生させて、強力な織田の援軍のいる時に武田を叩いて、後日の負担を減らしておきたい)。これにより設楽が原からの退路を絶たれると考えた武田軍は時間切れで織田・徳川連合軍への総攻撃を選択せざるを得なくなる。

 勝頼は軍議が平行線になった時に、決戦に臨む決断を下した。そして「御旗楯無、ご照覧あれ」の言葉を口にしたという。御旗は平安の頃から伝えられる源氏の白旗で武田家の家宝である。そして楯無の鎧もまた、重代の家宝だった。この二つの前で(先祖に対して)誓った言葉は決して覆せないと言うのが、武田家の不文律であった。ニュアンスで言えば「天地神明に誓って」というのに近いのだろう。もともと豪族連合的な体質が強かった武田家において、当主を議長以上のものたらしめるために認められた専決権のようなものだろう。長篠の場合に関していえば要するに、「連合軍との対決はすでに決定してしまったから、他の人間のどんな意見も聞き入れない」と宣言したのである。「最前線の砦を見殺しにしては面目が立たない(=自分に信任が集まらなければ大軍団を結成できない)」という考えだったのかもしれないし、いずれにせよ武田家の指揮命令系統ではこの伝家の宝刀を振るわざるを得なかったのだろう。だがここでも武田の御親類衆の弊害が出た。穴山信君ら御親類衆は、勝頼を飾り者の指導者としか思っていなかったために、勝頼の命令を無視して突撃しなかったばかりか、勝手に戦場から撤退してしまった。これで混乱した武田勢は徐々に崩れ出し、主に御親類衆が先立って退却してしまった為に中央部分から総崩れとなってしまい、武田勢は合戦後半の退却戦で山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱、甘利信康、土屋昌続ら信玄以来の宿将に多くの戦死者が出た。

 勝頼は、長篠の合戦での敗北を機会に、武田家の刷新を行おうとしている。たとえば長篠の合戦で鉄砲の重要性を認識した勝頼は、甲斐に帰ると直ちに鉄砲隊を組織編制するなど、これまでの騎馬一辺倒の武田軍団の再編成を行っている。敗戦でめげずにそれを反省し、むしろその失敗を次に生かす事が出来るというのは、勝頼が並の器の武将では無かった証拠だ。外交面でも越後の上杉謙信や相模の北条氏政と同盟を結んだり、遠く毛利元就に書状を送って第二次信長包囲網を形成したりするなど精力的に動いている。だが、勝頼は外交戦で第2の危機を招いてしまう。謙信が病死すると、謙信の二人の養子である上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎との間で御館の乱が起こった。こともあろうに武田勝頼はこの相続問題に首を突っ込んでしまう。同盟していた北条氏政の弟であり北条家から上杉家に養子として出されていた上杉景虎(旧名・北条氏秀、別人説あり)の支援を勝頼に依頼してきたからだ。ここで勝頼は難しい局面に立たされる。越後に出兵したものの、後詰として出てくるはずの氏政は動きが緩慢で、勝頼にある疑念を抱かせてしまった。それは北条家出身の上杉景虎は、四面楚歌になりつつある武田(=当時の武田家は織田・徳川と敵対しており、景虎が当主となった段階では、上杉家と北条家が一体化することで勢力拡大により三日月を描くように武田領が包まれる形を形成されてしまうので全周警戒しなければならない)に対して、足元を見るがのごとく、同盟するならば北信濃一帯及び、上野沼田一帯の割譲を要求してきた。一方の上杉景勝は軍資金に困窮していた武田家に2万両とも云われる黄金を支払い、上野沼田城を譲渡すると申し出てきた。しかもこの状況で隙をついた徳川家が遠江・駿河方面に侵攻してきた。これにより、武田家中では「三方に敵を抱えることは出来ない」として景勝との和睦を支持する声が強まり、勝頼は景虎を裏切って景勝との和睦に踏み切り、景勝に自分の妹の菊姫を娶わせた。武田家は景勝と和睦して越後を去り、戦いは景勝が勝ち、景虎は自害して果てた。

 だがこの選択が武田家を決定的に滅亡の道へと追い込んでしまった。氏政は、実弟(或いは従弟)の景虎への支援を同盟者の武田勝頼に依頼したのにもかかわらず、変節して自国に引き下がったことを勝頼の重大な背信行為として第二次甲相同盟を破棄し、天正7年(1579年)に徳川氏と、翌8年(1580年)に織田氏と同盟してしまう。これにより、同盟者たる上杉氏の国力が著しく疲弊していく中で武田氏は三方に敵を迎えてしまった。北関東では北条氏を圧倒していた勝頼であったが、逆に駿河沖での海戦では大型安宅船をもつ北条水軍に敗北して制海権を失ってしまう。さらに度重なる伊豆・東海道方面の戦いでは北条・徳川両家の共同作戦によって勝頼は東西から挟撃されることとなり、多方面で同時に軍事作戦を行わなくてはいけない状況になってしまい、長篠の合戦で受けた痛手からようやく回復しつつあった武田家の経済状況はたちまち逼迫した。これは駿河を統治する穴山信君の負担と不満を増大させた上に、致命傷ともいうべき高天神城の戦いを引き起こしてしまう。徳川の遠江侵攻により高天神城は落城の危機に遭う。本来ならば勝頼は高天神城に援軍を送るべきだったが、ほぼ毎年対外戦争を行っていて財政が逼迫していた上に、北条と同盟を破棄した事で北条に対する抑えの兵力の捻出が必要になり、予備兵力がなかったため、勝頼は援軍を送れなかった。その結果、高天神城の将兵はほとんどが戦死してしまい、勝頼は高天神城を見殺しにしたとして領内の国人衆に動揺を誘引してしまった。この視点から見れば勝頼の戦略的な見通しが甘かったと言わざるを得ない。勝頼もひしひしと危機感をつのらせるようになっていたのだろう。天正8年(1580)の終わる頃から、本拠地を躑躅ヶ崎館から新府(韮崎市)へ移すべく、新城の築城計画を開始している。これまで武田家家中では「戦は外でするモノ(=領土拡大)だ」という考えがあったため、国内に城は不要だった。しかし勝頼はその考えを改めて、韮崎に新府城という居城を拵えた。しかし、配下の国人や領民にとっては、ただでさえほぼ毎年対外戦争をやっていて、領内に多額の軍用金を負担させられているのに、それまで甲斐の国には無かった本格的な城郭を構築するという事は、築城費用の分だけ、またぞろ大きな負担を強いられる事となり、そのために租税を上げれば領民や家臣たちの不満がさらに高まり、結局は、家臣や領民の支持を失い、反発を生むだけの結果となってしまう。おまけにこの時、甲州金が枯渇して深刻な財政難に陥ってしまっていた。勝頼の代では信玄の頃にあった財政の基盤である金山の収入が減っていたと言われている(=産出量の低下は経済力の低下を意味する)。

 その結果、多額の戦費負担に不満を持った国人衆の離反を生み出して、勝頼の義弟・木曽義昌が織田信長に寝返り、勝頼は雪の木曽谷に討伐隊を出したものの、信長の増援部隊に返り討ちに遭い、そこに勝頼の義兄で親族筋に当たる穴山信君がかねてからの不仲と本領安堵を条件に家康に降伏して寝返り、織田・徳川連合軍は武田の領内へと侵攻してきた。そこに北条も加わり、武田征伐を三方から受ける羽目になった。実はここでも勝頼の地位の弱さが不幸を招いている。信君の離反は、息子の勝千代と勝頼娘の婚約を一方的に破棄された上に、勝頼がその娘を武田信豊(信玄弟・信繁の息子)に嫁がせた事に不満を募らせたためなどと言われている。この件に関して言えば要するに、御親類衆同士の権力闘争のもつれが信君の離反につながったということになる。親類縁者の序列よりも好き嫌いで選択した点が信君には気に障ったのだろう。御館の乱直後でただでさえ国内が混乱している上に、勝頼同様に信長の攻勢に対して防戦一方の上杉景勝には同盟者勝頼を支援する余力はなく、孤立無援の新府城では今後の動きを協議する軍議が開かれた。内容は、「どこへ落ち延びるか」の一点についてのみ。真田昌幸は、彼の城である上田城に落ち延びるよう進言したといわれている。これに対し小山田信茂は、自分の居城・岩殿城へと逃れるように提案した。先々代である信虎の妹が輿入れして以来、小山田氏は御親類衆の中でも筆頭に位置付けられていた。後の歴史から見れば上田城が大軍の攻撃にも耐えうる城である事は自明であるが、岩殿城は当時から天嶮として知られていた。また、信茂が家中でも強い発言力を持っていたこともあり、勝頼は信茂の進言を受け入れ、岩殿城へと撤退する事に決めた。

 だが結局、勝頼は信茂の謀反に遭っている。「人質」状態にあった自分の母親を手元に戻した直後、信茂は勝頼に向かって鉄砲を撃ちかけてきた。他の家臣と異なり、信茂の場合には、敵と内通しての謀反ではなかった。なぜなら小山田氏はもともと甲斐の有力国人で、信虎が自分の妹を「差し出す」という懐柔策で従えていた事もあり、武田家中でも特別扱いの独立勢力であるかのような気風が養われていたとされ、自分の領内の安寧を図るために土壇場で勝頼を裏切るような行動に走ったなどともいわれている(もっともこの変節が信長に信用されずに信茂は処刑されてしまうのだが)。自分たちの運命の到来を悟った勝頼は天目山に向かった。戦いの混乱が一段落した時、勝頼は息子・信勝、夫人・北条氏、そしてここまで付き従ってきた人たちを集めた。自害に先立ち、信勝は正式に武田家の家督を相続したという逸話がある。武田家の伝統では、嫡男は元服の時に家宝である楯無の鎧を身につけ、家臣たちを前に自分が世継ぎである事を宣言する事になっていた。そして、その場には公卿か、同盟関係にある大名が列席するのが慣習になっていた。信勝は、公卿や大名の代わりに、最後まで付き従った家臣・土屋昌恒を前に、この儀式を行った。このとき信勝16歳。信玄が定めた「成人」の歳だった。信勝は、最期に臨んで武田家家督を相続し、そして死んていった。勝頼は享年37歳で鬼籍に入った。

 こうして次々と悪循環で回っていくところは、何かもう止められない力で動いているようだ。勝頼が正しかっただの間違っていただのという問題ではない。サッカーで、負け続けて降格するチームを思い出してしまう。最初は、いいところ悪いところいろいろあり、それなりにうまくいったり行かなかったりを繰り返す。でも、次第に負けが込んでくると、いつの間にか何をやってもダメになる。選手を入れ替えても、戦術を変えても、まったく勝てなくなる。決定機を外す。つまらないミスが出る。押していてもカウンター1発でやられる。不運なオウンゴールなど。なぜか勝てない。必死にがんばっていても、終わってみると負けている。何度もいうように武田家はあくまで国人の代表者に過ぎず、国人にとって害になる大名であればこれを廃して別の人間を推戴すればよいという理屈になってしまう。信玄の父、信虎を追いやり信玄を選んだ程、国人の力の強いことが逆に弱り目に際し、祟り目に作用してしまった結果となってしまった。信長はこの仕組みの弱点を知っていて、早くから武士と領土を分断する。武士は戦うプロ集団となり、領土に帰って農業はしない。結果、24時間365日戦える戦闘集団が完成し、国人に土地を与える大名の発言権は飛躍的に上昇し、国人の代表という立場から国人の主へと主従関係が変わっていった。

 …400年続いた名門武田家の最後は、見るも無残な自壊であった。
 

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